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高槻史は面白い。このコーナーでは、著名な史実だけでなく、史料には登場しない高槻の各地域の伝承などを元に、私の個人的な見解を絡めて、高槻の歴史の面白さをご紹介できればと思います。

語り手 濱田剛史
市役所前を通るけやき大通りの歩道柵の支柱は銅鐸がかたどられています。けやき大通りの整備に伴い設置されました。
高槻からも銅鐸が2個出土しており、高槻の歴史を象徴する貴重な遺物の1つということで柵の支柱として採用されました。
さて、銅鐸は弥生時代の遺物です。紀元前3世紀ごろから紀元3世紀ごろまで使われました。
銅鐸は謎の多い遺物です。多くの研究者は農耕祭祀(さいし)具と考えていますが、果たしてそうでしょうか。今回は、銅鐸の謎について考えてみます。
まず、「祭祀」とは何でしょう。現代人は祭祀を宗教的な行為と考えていますが、当時の人々は祭祀を実用的な効果が生じるものだと考えていました。今の私たちが考える科学技術のような感じです。農耕祭祀なら収穫という効果を期待するということですね。ただ、弥生時代以降は農耕が発展します。仮に銅鐸が農耕祭祀のためだとすると、銅鐸祭祀の効果が期待どおりに生じていたわけです。しかし、弥生時代が終わると銅鐸祭祀は消滅します。なぜ続けなかったのでしょうか。
また、銅鐸は銅でできています。なぜ金属を使ったのでしょうか。しかも鋳造は難しい技術です。農耕祭祀なら土の方が親和性があるように思いますし、当時の人々は土器を作っていますから「土鐸(どたく)」が簡単に作れたはずです。
さらに、なぜ、銅鐸は鐘のような形状なのか。当初は鳴らしていたようですが、その後は文様が複雑になって美術品のようになり、なぜか土中に埋められるようになります。しかも、その埋設場所は高槻の天神山のような小高い丘の上など、農耕とは一見無関係な場所だったりします。なぜ「土鐸」をたくさん作って水田や畑近くに埋めなかったのでしょう。
私の直感ですが、銅鐸は農耕祭祀のためではなく、他の何らかの効果を狙って作られたものの、その後、その効果を得る必要がなくなったため消滅したのではないかと考えています。
当時の人たちから話を聞いてみたいですね。