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24.高槻城二の丸跡の発掘調査
令和5年3月にオープンした高槻城公園芸術文化劇場の南館が建つ場所は、江戸時代の高槻城二の丸跡にあたります。市では整備工事に先立ち、二の丸を囲む石垣や土居・門の部分を保存しながら、発掘調査を行いました。その結果、戦国から江戸時代の3時期にわたる城の堀を検出し、位置や規模・構造を変えて掘削・埋戻しが繰り返されたことが明らかになりました。
最も古い堀は、戦国時代に直線的な幅約7m、深さ2.5mの堀が掘られていました。
次に、1つ目の堀を埋めてから幅16m、深さ4mの何度も屈曲する堀が掘られました。この堀は和田惟政・高山右近の時代から江戸時代初めまでの間に位置付けられます。堀が屈曲する「横矢」がかかり、上斜面には数段の石垣が築かれました。堀底には四角形の穴が連続して敷設された「堀障子」が築かれていました。いずれも堀を簡単に渡らせない防御上の工夫です。
江戸時代初めには2つ目の堀を埋めた上に二の丸御殿が築かれ、その北側に以前の堀を拡張して内堀が掘られます。幅18m以上、深さ4m以上あり、門や櫓(やぐら)などの要所には堀底から高石垣が築き上げられました。幅・深さとともに高石垣の構築によって最大規模の堀が完成しました。
この変遷は、三好・織田・豊臣・徳川と天下が変わって戦乱が続いた当時、防御力を高めるために高槻城で大規模な改修が何度も行われたことを物語っています。(埋蔵文化財調査センター)
高槻城二の丸跡で検出した堀