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25.高槻城跡の工兵隊
明治40(1907)年、陸軍の戦力増強に伴い、京都・伏見にあった工兵第四大隊は、新たな本拠地を探すことになりました。
新聞報道で、高槻町(当時)が候補地であることが分かると、地元では誘致の機運が高まりました。
町の中心の高槻城は、明治4(1871)年の廃藩置県の後に廃城となり、石垣石などを鉄道建設に 用いるため建物や石垣は失われました。
その後、城跡はさびれたままで、明治時代後期になっても大部分が田畑か野原でした。和歌山市も誘致運動に熱心だったことから、高槻町では用地を買収し、陸軍へ献納することにしました。
町会(議会)に土地献納議案が提案された際の理由書には「高槻町は廃藩以降年々衰退し、他に物産もなく、人口が減少して商工業者は苦境である。工兵隊誘致に成功すれば、町は将来にわたり発展し、往年のようになる」とあり、厳しい現状と誘致への期待がうかがえます。
高槻町は約1万平方メートルの土地を献納し、高槻への移転が決定しました。
後に、献納に対して政府から三枚重ねの金杯一組が贈られました。
明治42(1909)年3月、工兵第四大隊が高槻城跡に設けられた兵営に移転してきました。
現在の高槻城公園や第一中学校、しろあと歴史館がある一帯に司令部や兵舎、倉庫が建ち、府立槻の木高校から高槻城公園芸術文化劇場にかけては練兵場(訓練場)となりました。
現在も、高槻城公園の北側入口近くに工兵隊の正門と歩哨舎 (門番の兵士の詰所)が残り、記念碑が建っています。
現存する正門と歩哨舎