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35.塚原古墳群と竹村屯倉(たかふのみやけ)

ページID:142709 更新日:2025年1月28日更新 印刷ページ表示

市西部の阿武山南麓一帯には、かつて100基を超える古墳がありました。塚原の名称の由来とさ れ、江戸時代には「八十塚(やそづか)」と呼ばれる名所でした。こんもりとした塚(古墳)が集中し、現在も30基ほどが残っています。今から1,450年前の古墳時代後期から飛鳥時代にかけて、約半世紀にわたり築かれた古墳は、多くが横穴式石室を備えた直径20m以下の円墳です。

塚原古墳群は北摂を代表する群集墳で、古墳の分布と多さから、複数の集団が墓域を共同利用し、拠点とした集落や田畑は、安威川沿いや淀川低地の平野部にあったと考えられます。

奈良時代に編さんされた「日本書紀」には安閑(あんかん)天皇の時代、三島に「竹村屯倉」を設置したとの記事があります。安閑天皇は継体天皇の皇子で、屯倉とは中央政権が地域開発や地方豪族の支配強化のために設けた直轄地です。屯倉の設置は結果的に、地方豪族の力をそぎ、倭王権に富を集中させることになり、後の律令国家成立の礎となりました。竹村屯倉は安威川流域や淀川低地の広範囲に及ぶと推定されていて、塚原古墳群を造営した人々は屯倉の経営にも関わっていたとみてよいでしょう。

古墳時代から飛鳥時代へと至る歴史の転換期に造られた塚原古墳群を分析することにより、社会構造の変化や地域開発の歴史を明らかにし、日本の国家形成史にも迫ることができるのです。

塚原古墳群の調査風景

塚原古墳群の調査風景(北から撮影)
手前A63号墳、奥A62号墳(平成15年ごろ)