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12.和田惟政と高槻城

ページID:037287 更新日:2022年3月22日更新 印刷ページ表示

戦国時代の人物と高槻との接点を取り上げます。
今回は、戦国武将の和田惟政です。
近江国甲賀郡和田(滋賀県甲賀市)の出身で、織田信長に重用された武将ですが、その名を知る人は少ないのではないでしょうか。

惟政は永禄8(1565)年に三好氏らが将軍足利義輝を殺害した際、奈良興福寺の一乗院覚慶(後の足利義昭)の脱出を助けた人物です。
織田信長の支持を得て、義昭が将軍となった永禄11年に芥川山城の城主となります。
その後、芥川山城は家臣の高山氏に預け、高槻城に拠点を移し、信長の摂津支配の要を担うことになりました。
このころ来日した宣教師は、惟政を「都の副王」と呼んでいます。

元亀2(1571)年、惟政は荒木村重が率いる摂津池田氏の軍勢を前に白井河原(茨木市)で敗死。息子の惟長が跡を継ぎました。
惟政の墓は、江戸時代に城内で発見され、現在は、伊勢寺(奥天神一)で祀られています。

惟政の戦死後、和田家は混乱し、元亀4年に惟長は高山右近との争いに敗れ、高槻城を去りました。
この争いは「天主」で起こったと当時の日記に書き留められています。

当時、織田信長の武将たちは城に「天主」と呼ばれる高層建築物を設けはじめました。
やがて「天守」の文字があてられ、豊臣秀吉の時代、城のシンボルとして全国に広がります。
和田時代の高槻城の「天主」の記録は、足利義昭の旧二条城、明智光秀の近江坂本城に続く全国3番目に古い事例になっています。

和田惟政の墓

和田惟政の墓(伊勢寺)