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「高槻 まちかど遺産」高槻・芥川周辺地区
市では、生活に密着したまちかどの文化財や歴史などを、「高槻 まちかど遺産」として市民のみなさまから公募、選定し、高槻・芥川周辺地区では31ヵ所に説明板を設置しています。
散歩やお買い物の途中にご覧いただき、「歴史のまち たかつき」を楽しんでください。
番号 |
まちかど遺産名 |
説明板 |
ひとこと紹介 |
---|---|---|---|
1 |
芥川宿水門跡 |
芥川町 |
江戸時代の宿場町・芥川宿の西口にあたる場所に残る水門跡。芥川の増水時には止水板をはめ、宿場への侵水を防いだ。 |
2 |
愛宕燈籠と子宝地蔵尊 |
芥川町 |
燈籠は旧坂口町の「愛宕講」によって文政5年(1822)に建てられたもの。東隣の地蔵堂には子宝地蔵尊が祀られている。 |
3 |
神峯山寺道標と橋詰地蔵尊 |
芥川町 |
道標は、淀川河港・三島江からの参詣道に設けられた16基のうちの1基で、享和元年(1801)の建立。東隣の「橋詰地蔵尊」は芥川宿の西口で道祖神の役目も果たしていた。 |
4 |
芥川小学校跡地碑 |
紫町1 |
芥川小学校は、明治6年(1873)12月、万福寺の堂舎を仮校舎として開校した。昭和9年(1934)、現在の校地へと移転したため、この地最後の卒業生によって建立された石碑。 |
5 |
芥川宿と城下町を結ぶ道 |
芥川町 |
江戸時代、西国街道の芥川宿と高槻城下を結ぶメインルートとして、城下町北西の出入口「芥川口」に通じていた道。 |
6 |
山崎合戦の秀吉本陣跡 |
芥川町 |
天正10年(1582)、「本能寺の変」の後、羽柴(豊臣)秀吉は本陣を上宮天満宮下の「天神馬場」に構え、天王山の戦いで明智光秀を打ち破った。 |
7 |
松永久秀の鼓塚 |
高槻町 |
高槻駅前郵便局の東側には、戦国武将・松永久秀が鼓を埋めたという伝承が元になった「堤塚」という地名(小字)が残っていた。 |
8 |
芥川口とのこぎり形の家並み |
紺屋町 |
芥川口は高槻城下に設けられた北西の出入口で、その東、紺屋町の一角は、家並みが道に対して斜めに並ぶ「のこぎり形」になっている。 |
9 |
京口 |
京口町 |
京口は高槻城下に設けられた北東の出入口で、西国街道と高槻城を結ぶ八丁松原の起点にあたる。八丁松原は、かつて参勤交代にも用いられた。 |
10 |
前島口と本町通り東辻の道標 |
上本町 |
前島口は高槻城下に設けられた東の出入口。西の本町通りと交わる辻に建つ道標は、文政8年(1825)に建立された。 |
11 |
愛宕信仰の燈籠 |
大手町 |
愛宕神社を信仰する人々が組織する「愛宕講」により建立された。燈籠の火袋(火をともす所)には、火伏札などが供えられた。 |
12 |
高槻城北大手門跡 |
大手町 |
高槻城の三方にあった大手門のひとつ。門は残っていないが、「北大手」交差点にその名残をとどめている。 |
13 |
高槻城出丸の門跡 |
野見町 |
出丸は寛永13年(1636)ごろ、城の西側に増設された郭。北側にだけ門が構えられていた。 |
14 |
高槻城三の丸と外堀跡 |
野見町 |
旧市民会館周辺は高槻城「三の丸」北郭の南西部にあたり、かつては周りを広い外堀に囲まれていた。旧市民会館西側の段差はその名残で、外堀跡が一段低くなっている。 |
15 |
ムクノキ大明神 |
大手町 |
江戸時代、この地には立派なムクノキがそびえていた。当時のムクノキは残っていないが、現在は「ムクノキ大明神」として祠が建てられている。 |
16 |
高槻城の外堀道 |
大手町 |
江戸時代の高槻城外堀に沿っている道。敵の攻撃に備える工夫で、途中何度も直角に曲がっている。 |
17 |
道路に残る高槻城の堀跡 |
城内町 |
高槻城跡の周辺の道路には、ゆるやかな傾斜があり、かつての城堀の名残をとどめている。 |
18 |
思案石 |
城内町 |
かつて高槻城外堀沿いの角(本行寺前)にあり、「生活に苦しんだ人が腰を掛け、堀への身投げを思案した」という伝承からこの名がついたともいわれている。 |
19 |
高槻城の石垣石 |
城内町 |
昭和50年(1975)に発掘された高槻城の石垣石。石切場で切り出した際の「矢穴」痕や刻印を見ることができる。 |
20 |
高槻藩藩校「菁莪堂」跡 |
城内町 |
「菁莪堂」は高槻藩9代藩主・永井直進が1790年代に設立した藩校。8歳から18歳までの藩士の師弟が学び、多いときには在籍500人を数えた。 |
21 |
高槻城三の丸と外堀の段差 |
城内町 |
高槻城公園周辺は高槻城「三の丸」東郭の南部にあたり、公園の東縁に沿って続く段差は外堀の名残である。 |
22 |
高槻城の蔵屋敷跡 |
出丸町 |
江戸時代の高槻城南辺で、南大手門の西側に続く「蔵屋敷」と称された一画。ここから北側の坂の上が蔵屋敷。南側は城外にあたる。 |
23 |
都加母止塚 |
八幡町 |
江戸後期の『摂津名所図会』にはその名が記されている。大正時代の『大阪府全志』にも記載があるが、由緒などは不明である。 |
24 |
大塚口 |
八幡町 |
大塚口は高槻城下に設けられた南東の出入口。ここからの道は、淀川の堤を経て大塚から渡し舟で枚方に通じていた。 |
25 |
大坂口 |
土橋町 |
大坂口は高槻城下に設けられた南の出入口。ここから南へ向かうと、下田部や芝生を経て、淀川の河港・唐崎浜や三島江浜などに通じていた。 |
26 |
富田口 |
城西町 |
富田口は高槻城下に設けられた南西の出入口。ここから西へ向かう「富田街道」は、富田や茨木など北摂を代表する町場を結んでいた。 |
H29-1 |
上宮天満宮参道の燈籠と狛犬、石段上の鳥居 |
天神町 |
昭和52年(1977)に現在の大鳥居が建立されるまで、石鳥居が建っていた。 |
H29-2 |
能因法師墳・花の井への道標 |
古曽部町 |
平安時代の歌人・能因法師の墓と伝わる能因法師墳を案内する道標。この80メートル東には、能因法師が用いたと伝わる井戸「花の井」を案内する道標がある。 |
H29-3 |
高槻城の石垣石を転用したレンガアーチ橋 |
川西町 |
明治6年(1873)に着工された京阪間の鉄道(現JR京都線)では、いくつものレンガアーチ橋が造られた。アーチ橋の入口や土台には、破却した高槻城の石垣石が転用された。 |
H30-1 |
円成寺前の道標 |
京口町 |
京都・山崎方面と大坂・尼崎方面を案内する道標。幕末の万延元年(1860)に地元の人々により建立された。 |
H30-2 |
是三寺前の道標 |
八幡町 |
大阪府が各地に建てた道標の一つ。 |
ダウンロードマップ
[高槻まちかど遺産」(高槻・芥川周辺地区)マップ(PDF:594.3KB)