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3.福島正則と柱本
戦国時代の有名な人物と高槻との接点を取り上げます。豊臣恩顧の大名・福島正則です。
福島正則は、豊臣秀吉の親戚で幼少期から従い、天正11(1583)年の賤ケ岳の戦いでは七本槍の筆頭とされる手柄をあげたことで知られます。
秀吉の死後は徳川家康に接近し、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは東軍(徳川方)に属しました。
戦後は、広島城主に栄転しますが、元和5(1619)年に幕府に無届けで城を修築したことをとがめられ、改易されています。
市指定文化財 池田輝政・福島正則禁制(個人蔵・しろあと歴史館寄託)
さて、関ヶ原の戦いは9月15日に起きましたが、柱本村には直後の21日の日付で福島正則(羽柴左衛門太夫)と池田輝政(羽柴三左衛門尉)が出した禁制が伝わります。禁制とは、兵火から自らを守るために村や町が大名らに保護を求め、乱暴などを禁じてもらうもので、謝礼を用意することもありました。
関ヶ原合戦の直後、正則と輝政は西軍(石田三成方)を追って9月19日に京都、23日には大坂城へ入りました。柱本村の人々は、世情を判断して正則らに保護を求め、正則もそれに応えたのでしょう。この禁制は、その間に出されたもので、時代の緊張を伝えています。
綿絵に描かれた福島正則(しろあと歴史館蔵)