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17.古曽部の「弁天功徳水」伝承
昔から、稲作には天候が大きく影響を与え、豊富な水の確保に人々は苦労しました。
江戸時代の慶安5(1652)年夏、干ばつが長く続きました。古曽部村では氏神の日吉神社で降雨を祈る儀式(雨乞い)を行っていたところ、満願の日に大地が鳴動して村域の南で水が湧き出たと言います。さらに、その7日後に約6キロメートル離れた北部の原村で祭られていた弁財天像が突如現れたとされます。
弁財天は、七福神の一尊に数えられますが元々インドの河を神格化した存在で水神として信仰されてきました。
これを知った高槻藩主・永井直清は、記録に残すため、儒学者の林羅山に依頼して、文章にまとめ、村に授けました。
古曽部村ではこの泉を「功徳水(くどくすい)」と名付け、村域の西国街道の北側辺りに弁財天社を祭ったと伝わります。
功徳水とは、神仏の恵みでご利益を得る水を指します。
その後、日数を限って弁財天像を納めた厨子の帳(とばり)を開き、特別に拝観できるようにすることで、参詣者から浄財を集めていました。
たびたび弁財天のご開帳があり、水に関わるご利益にあやかろうと多くの参詣者でにぎわったようです。
この弁財天社は、明治10(1877)年ごろ、日吉神社に合祀されました。
かつては高槻城下から西国街道へ向かう「弁天道」の名がありましたが、鉄道建設で消滅したとされます。
しかし、伝承地は今、JR高槻駅東の「弁天こ線橋」の名に受け継がれています。
日吉神社
弁天こ線橋