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安満遺跡

ページID:004542 更新日:2024年1月9日更新 印刷ページ表示

安満遺跡は、近畿地方でもいち早く米づくりを始めた、弥生時代の大環濠集落跡です。約2,500年前、稲作技術をたずさえた開拓者たちが安満山を望む葦辺に水田を拓き、先住の縄文人たちと共生するなかで、新たな弥生文化が華ひらきました。
京大農場跡地一帯に、環濠がめぐる居住域、低湿地と一体をなす生産域、そして墓域が営まれました。人々は淀川を通じて広範な地域と活発に交流し、ほぼ800年間にわたって栄えたことがわかっています。
日本の弥生文化を知る上できわめて重要な遺跡であり、中心部の約13ヘクタールが国史跡に指定されています。史跡全体を含む京大農場跡地一帯は、安満遺跡公園として、令和3年3月27日に全面開園しました。

ここがポイント!安満の弥生ムラ

1.弥生集落の3要素である居住域・生産域・墓域の範囲や時期が把握されている

日本各地の弥生遺跡の中で、集落の3要素が確認され、その範囲や移り変わりがつかめている遺跡はごくわずか。安満遺跡は弥生ムラの成り立ちや、のちのクニへの発展過程を知る上で、とても大切な遺跡です。

2.弥生時代前期から後期まで継続的に営まれた、拠点的集落である

三島地域の弥生時代をリードした大集落です。三島の拠点的集落は、ほかに銅鐸をつくっていた茨木市の東奈良遺跡があげられます。

3.縄文文化と出会って弥生文化が華ひらいた地である

縄文人は弥生人と出会い、やがて共生して弥生文化の担い手ともなっていきます。縄文文化の精華である漆塗りの櫛やかんざしは、そうした交流の象徴です。

4.瀬戸内・四国、琵琶湖・北陸方面など、淀川を経由して広範な地域と交流した

土器をはじめ、石器や石材、さらには長大な木棺材に至るまで、さまざまな文物が淀川水運を通じて流通し、各地の弥生ムラを結び付けていました。

三島地域の弥生時代遺跡の画像
三島地域の弥生時代遺跡

遺跡のひろがり

安満遺跡は、高槻市八丁畷町、高垣町、安満東の町、安満新町にまたがる東西1.5キロメートル×南北0.6キロメートルの範囲に広がっています。
古代以前の檜尾川は成合からほぼまっすぐ南へ流れ、平野部に扇状地を形成していました。弥生時代の集落は扇状地の末端に立地し、時代が下るほどに東方へ移動している様子がうかがえます。

西側上空からみた安満遺跡の画像
西側上空からみた安満遺跡
画面中央右寄りの農地一帯が弥生時代集落の中心部。画面後方は京都市街(2008年11月撮影)

発掘調査の歩み

 

事項

昭和3(1928)

安満遺跡発見。京都帝国大学(当時)農学部附属農場建設のさい、多量の土器・石器が出土

7(1932)

昭和3年出土の安満B類土器と九州の遠賀川式土器の比較研究により、北部九州の弥生文化がいち早く近畿地方に伝わったことが証明される

42(1967)

遺跡北西部で宅地造成計画。発掘調査により方形周溝墓を西日本で初めて確認
範囲確認調査により、遺跡範囲は東西1.5km×南北0.6kmと推定

43(1968)

農場北側で宅地造成計画。調査で2条の環濠を確認し、弥生時代前期の農具等が多数出土
市民、行政、市議会一体となって遺跡保存の気運高まり、当該地を買収して保存が図られる

45(1970)

大阪府教育委員会が農場内で範囲確認調査を行う。保存良好な木棺墓を検出

47(1972)

農場内の調査で条里制遺構を確認
高垣町地内の桧尾川寄りで古墳時代から中世の集落跡及び弥生時代の方形周溝墓群を調査

51(1976)

高垣町地内で方形周溝墓群調査、木棺2基出土。以後55年ごろまで、同町内で弥生時代から中世にかけて、多数の遺構・遺物を確認

55(1980)

阪急高架工事の事前調査で、弥生時代前期の用水路と井堰を検出
弥生時代の拠点集落跡としての安満遺跡の居住域・墓域・生産域が具体的に把握される

56(1981)

翌年にわたり農場北側で範囲確認調査

59(1984)

このころまでに高垣町地内の調査を重ね、方形周溝墓群は合計100基を超える

環濠の調査の画像
環濠の調査
1968年当時、発掘調査には地元府立島上
高校の地歴部員も参加していた

環濠出土、製作途中の鍬の画像
環濠出土、製作途中の鍬
カシの厚板に柄を取り付ける突起を削り
出し、4つ一連でつくっている

1970年に発見された大人用の木棺の画像
1970年に発見された大人用の木棺
遠方から入手したコウヤマキでつくられ
ている

1980年に発見された用水路と井堰の画像
1980年に発見された用水路と井堰
井堰は水路をせきとめ、用水路の水位を
調整する施設

 

事項

平成 3(1991)

文部大臣に対し、遺跡の中心部について史跡指定申請書を提出

5(1993)

11月、農場北側の民有地約6.4ヘクタールが史跡指定を受ける。以後、公有化を推進

20(2008)

22年(2010)まで、農場内の確認調査を実施。複数の環濠を検出したほか、弥生時代前期の集落景観を推定するに足る重要遺構の分布範囲を特定し、史跡追加指定を意見具申

23(2011)

2月、京大農場内の約6.4ヘクタールが史跡追加指定を受ける

25(2013)

史跡の保存と活用を図り地域防災力の向上に寄与する公園整備を目指し、「(仮称)安満遺跡公園整備基本構想」策定

26(2014)

史跡隣接地の調査で弥生時代前期の小区画水田を検出、計画を変更して保存が図られる

27(2015)

公園等整備に伴う調査で用水路や方形周溝墓群を検出、遺跡南西部の状況が明らかになる

30(2018)

史跡整備工事に着手

令和 3(2021)

全面開園

1972年に発見された東部方形周溝墓群の一角の画像
1972年に発見された東部方形周溝墓群の一角
溝をめぐらせた四角い墓(家族墓)が溝を共有して営ま
れ、血縁関係がうかがわれる

2008年に旧農場内で確認した環濠の画像
2008年に旧農場内で確認した環濠
こわれた木製の鍬や斧の柄などが底から
出土した

木製の農工具の画像
木製の農工具
手前から又鍬、斧の柄、平
鍬または狭鍬

環濠から出土した弥生土器(前期)の画像
環濠から出土した弥生土器(前期)
前列小壷、中列は煮炊き用の甕、後列
は貯蔵用の壷

さまざまな石器の画像
さまざまな石器
前列やじり、中列は石製穂摘具、後列は玉鋸。
やじりは瀬戸内や二上山のサヌカイト、穂摘具は
近江高島の粘板岩、玉鋸は阿波の結晶片岩製

前期の小区画水田の画像
前期の小区画水田
幅3メートル、長さ5から10メートルの細長い水田が洪水砂の下からみつかった。
水田面では弥生人の足あとがいくつもみつかった。足あとのくぼみに砂が入り込んで残ったもので、洪水を心配して田の見回りに来たときについたものだろうか。

水田跡の画像

弥生人の足あとの画像

弥生ムラのようす

約2,500年前、稲作技術をたずさえた弥生の開拓者は瀬戸内から淀川をさかのぼり、この地にやってきました。山あいから流れ出た檜尾川が形成した扇状地の先端部にあたり、葦が茂る低湿地に向かって乾いた微高地が突き出し、幾筋も細い流れが走っていました。
微高地に居を構えた人々は低湿地に水田を開き、やがて少し離れた未利用地に墓を営みました。数世代を重ねた頃、環濠が土砂で埋まり一帯の地形が変わるほどの洪水が襲いました。しかし人々は環濠を掘り直し、水田は場所を移して以前にも増してムラは発展しました。
ムラを開き、米づくりを始めた最初から、縄文人との交流がありました。縄文文化の伝統をひく漆塗りの装身具はその証し。婚活の結果かもしれません。やがて縄文人も米づくりを行い、弥生文化の担い手となっていきます。安満ムラはおだやかに発展していったようですが、突然環濠が倍ほどの大きさに掘りなおされる遺跡もあり、縄文人をムラに受け入れたものと考えられています。

発掘調査でわかってきた安満の弥生ムラ(前期~中期)の画像
発掘調査でわかってきた安満の弥生ムラ(前期から中期)

  • ムラのすぐ北側には縄文人が住んでいた。縄文人の生活圏に米づくりをする人々がやってきて住みつき、互いに影響しあって水稲稲作を基調とする弥生文化が根付いていく
  • 低湿地に突き出た微高地に居住域が営まれ、ムラの人口増に応じて幾度も環濠が掘り直された
  • 前期の水田は居住域沿いの低湿地に開かれた。小区画水田や用水路、井堰が見つかっている
  • 居住域の東西に方形周溝墓群からなる墓域が形成された。東群では100基以上確認されている

農作業や狩りにいそしむ安満のムラびとたちの画像
農作業や狩りにいそしむ安満のムラびとたち
弥生時代前期後半、洪水に襲われる前の集落景観の想像図(作画は考古イラストレーターの早川和子さん)

国史跡・安満遺跡

国の史跡とは、国が将来にわたって地域に残していく大切な財産と認めた遺跡です。日本の歴史を知る上で欠かせないものであると同時に、地域に根ざした歴史の証人として、地域にあっては心の拠り所となる、かけがえのない存在です。

文部科学大臣による史跡指定

平成5年11月、旧農場北側の農地部分が指定される
平成23年2月、旧農場内の一部が追加指定される

史跡安満遺跡の指定理由

弥生時代の環濠集落跡を含む総面積約72万平方メートルに及ぶ集落遺跡。居住域、生産域、墓域の3つの要素で構成されており、その関係を時期的にたどることができる。弥生時代の「クニ」の変遷過程を明らかにすることができる、極めて重要な大規模遺跡である。(抜粋)

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